延平郡王三将軍殿では延平郡王鄭成功と三将軍を祀っています。鄭成功は南明抗清の名将で、幼い頃の名を福松、元の名を森、字を明儼、号を大木とし、明熹宗の天啓4年(西暦1624年)7月14日に日本の肥前平戸(現在の長崎県松浦郡)千里濱に生まれ、明永暦16年(西暦1662年)5月8日に台南府で病死し、享年39歳でした。鄭成功の祖籍は福建省泉州府南安県石井郷にあり、父親は鄭芝龍、母親は翁氏(日本の田川氏)で、日本平戸侯の家臣であった田川の娘にあたります。福松は7歳のときに日本から中国へ戻り、福建南安県安平鎮に居住し、鄭芝龍によって森へと改名します。また、二十歳には福建省の地方試験を受けて南京太学に就学し、銭謙益に弟子入りしています。謙益は孟子の言葉「為巨室則必使師求大木。」から、森の号を大木と付けています。


  •   明永暦帝は永暦8年(清順治12年、西暦1654年)に鄭成功を延平王に封じたものの、鄭成功はこれを辞退しています。翌年4月に永暦帝は再度勅令を出し、延平王の冊子と印章を厦門まで届けると、ようやく延平王の称号を受け取っています。鄭成功は台湾接収から14か月未満の享年39歳で死去し、台湾に居た期間は短いものの数多くの功績を残し、オランダ人を駆逐して大勢の漢人を率いて台湾を開拓し、台湾の英雄として、民間では「開台聖王」との尊称を付けられて、死後に創廟して祀られています。

      延平王と共に祀られている三将軍は、史料の記載と民間の伝承には多少異なる部分が見られます。『台湾通史』によると三将軍は明鄭の部将で、それぞれ劉国軒、何祐知、李三将軍とされ、『台北庁誌』の中では劉国軒、何賓(斌)、石将軍とされ、劉国軒のみが共通しています。また、民間の伝承は上述の史書と異なり、鄭太子、甘輝、万礼を三将軍としています。