「關渡」(グワンドゥ)の名称は、ケタガラン(凱達格蘭)族の言葉「Kantou」に由来しています。スペインの文献には「Casidor」の記載があり、言語体系によって発音が異なりますが、關渡の別表記には「甘答」「干豆」「干荳」「肩脰」「墘竇」「官渡」等が見られ、基本的に平埔族語の発音をもとにした当て字となっています。「關渡」の名称は、乾隆25年(西暦1760年)に編纂された『台湾府誌』の中にも出現し、日本統治時代に一度「江頭」に改称されるも、光復後には再び「關渡」と称されるようになりました。

  『諸羅県志』の記載によると、關渡宮は康熙51年(西暦1712年)に創設され、曰く「天妃廟:一在外九莊笨港街。三十九年,居民合建。一在鹹水港街。五十五年,居民合建。一在淡水干豆門。五十一年,通事賴科鳩眾建。」(天妃廟:ひとつは外九荘の笨港街にあり。39年、住民たちにより建設。ひとつは鹹水港街にあり。55年、住民たちにより建設。ひとつは淡水干豆門にあり。51年、通事の頼科鳩衆により建設。)關渡宮は台南以北にある媽祖廟の中でも、北港朝天宮に次ぐ歴史を持ち、媽祖信仰者の間では「南に北港、北に干豆の媽祖あり」と語られています。廟を建設した頼科は当時、台湾北部「大鶏籠社」(基隆・台湾の北部沿岸地域)の原住民族を統括していた通事で、主に原住民族からの徴税と労働指揮の役割を担い、關渡宮の建設にも原住民族を使役しています。天妃廟創設の際の状況は、『諸羅県志』で以下のように語られています。「靈山廟:在淡水干豆門,前臨巨港,合峰仔峙、擺接東西二流與海潮匯, 波瀾甚壯。康熙五十一年建廟,以祀天妃,落成之日,諸番並集。忽有巨魚數千隨潮而至,如拜禮然。須臾,乘潮復出於海,人皆稱異。」(霊山廟:淡水干豆門にあり。巨大港に面し、峰仔峙(現・汐止)と擺接(土城・板橋)からの東西の流域(基隆河・大漢渓)が海流と交わり、波しぶきは大層壮観である。康熙51年に天妃を祭る廟を建設し、落成の日には、諸番が集結。突如、巨大魚数千匹が潮に乗り、参拝するかのように現れ、瞬く間に再び潮に乗り海へと帰る。人々はこれを奇異と称す。)当時の廟は、物資状況と社会環境の制限により、藁葺き屋根といった簡素な体裁で建設されています。

  康熙51年(西暦1712年)は關渡宮創建の年であると同時に、外来の勢力が淡水周辺の海域にて虎視眈々と侵入の機会を窺っていた時代でもありました。關渡宮は台北盆地に進出する要地にあたり、現地住民の信仰の中心としても重要な役割を果たしていたため、所轄の諸羅県官吏は情報収集の要地として關渡宮を重視し、積極的に施設の改善に当たっていました。そのため、康熙54年(西暦1715年)すなわち關渡宮創建から三年後には、木造瓦屋根へと再建されています。県令の周鐘瑄は嘉義から数百キロの道のりを越えて台北へと赴き、天妃廟に「霊山」の称号を付与し、關渡宮の裏山と台北湖に面する数十甲(一甲=2934坪)の土地の開墾租借費用の徴収権を住職に与えて、關渡宮の永続的な存続を保障しています。