文昌帝君殿は關渡宮正殿の右手側(向かって左側)にあり、文昌帝君を主神として祀っています。文昌帝君はまたの名を「梓潼」「文昌帝」「済順王」「英顕王」「梓潼夫子」「梓潼帝君」「霊応帝君」と呼び、学問や功名、禄籍(天界・冥府にある人の福禄寿を記録した帳簿)を司ると言われています。
文昌帝君はかつて『梓潼帝君化書』の中で自らの出生を語り、道教で信奉されている文昌帝君の由来とも一致する内容で、梓潼神「亞子」と関係があるとされています。(予生於周初,迄今有七十三化矣。西晉之末,再遊人間之初,忽至會稽之陰,見一隱者,年五十許,具香燈仰天而祈。時中春之夜,天文燦爛,張翼二宿昭然在上。俯而聽之,隱者姓張,適符列宿之一,予於是生焉。)また、『晋書』によると、東晋の寧康2年(西暦374年)に蜀王を名乗る者が出現し、前秦の苻堅に対する反撃を発起して戦死したとされています。その後、人々は梓潼郡七曲山に張育祠を建て、かの者を雷澤龍神として祀っています。七曲山には別に梓潼神亜子の祠もありましたが、両者は近くにあったため、後世の人々は二つの祠を併せて張亜子とし、晋の戦で戦死したとしています。また、『明史・礼志』の中にも関連する記載が見られます。(梓潼帝君姓張名亞子,居蜀七曲山,仕晉戰歿,人為立廟祀之。唐宋屢封至英顯王。道家謂梓潼帝君掌文昌府事,及人間祿籍,故元加封為帝君,而天下學校亦有祠祀者,歲二月三日生辰,遣官致祭。)
「文昌」は神明の名であると同時に、星の名称でもあります。古代史部の記載によると、『史記・天官書』『晋書・天文志』の中で天文学上の星の名称として出現し、古代の天文信仰と結びついて、道教の星宿崇拝が生まれたとされています。古命書の『陽宅集成』(文昌足學飽經才,南極祥光照玉台,乾坤久固天齊福,神仙來慶壽筵開。)や『史記』(斗魁戴匡六星曰文昌宮。)にも記載があり、文昌は司科甲主文衡の星宿で、文昌宮の六星は上将、次将、貴相、司命、司中、司禄であり、紫微垣に属しています。『索隠』にも記載があるように、六星にはそれぞれ司るものがあり、人間の学問運と禄籍を掌握しているため、学問を学ぶ者に崇拝されています。