民国46年(西暦1957年)から92年(2003年)にかけての改修工事と石彫の制作は、關渡宮の黄金時代と言われ、乾隆時代の龍柱や道光時代の石窓と石彫の壁、日本統治時代の石彫物が残されています。また、民国40年代に三川殿の石彫工事に携わった名匠の張木成、張清玉、施天福、劉英宏らの貴重な作品も残されています。

  中港正門にある観音山石で造られた透かし彫りの一対の龍柱を、柱頭・柱身・土台に分けて見ていくと、柱頭の丸い部分には八仙の人物像が彫られ、円形の柱身には絡みつく龍と牡丹、花鳥、乗り物に乗った人物等が、透かし彫りで施されています。龍は柱の上部を目指すように絡みつき、頭部前半はほぼ丸彫りで、龍身を三重に柱に巻き付き、迫力ある姿を呈しています。また、巻き付く龍身の間には、頭上に武冠を戴き、顔面に隈取を施し、がっしりとした体つきで乗り物に乗った人物が彫られ、典型的な恵安石彫の特徴が見られます。これらの人物の中には、黒麒麟に乗った聞太師と四不像に乗った姜子牙、五色の神牛に乗った黄飛虎が見られ、『封神演義』の「聞太師西岐討伐」を主題としています。

  三川殿後方に位置する柱には、透かし彫りで彫られた一対の花鳥柱があります。柱の上下両端にはそれぞれ大きな鳳凰の彫刻があり、二羽の間には上から下へ牡丹と梅の木が彫られ、上下に飛翔するカササギとフクロウ、様々な花鳥・瑞獣と人物が「喜上眉梢」(喜び)の寓意を表現しています。人物の彫刻には局部に金をあしらい造形を際立たせ、色彩による視覚効果も加わって、素朴な中にも華やかな一面を持つ民間芸術の特色が見られます。

  また、三川殿入口にある観音山石で造られた一対の石獅子は民国46年に制作され、民国92年の工事で修復されています。石獅子は廟を守るような姿勢で正門に向き合い、頭上の毛は渦巻き、両目は丸くやや突出し、厚みのある丸い鼻先と、花びらのようにやや上向きにはねた耳、発達した四肢の筋肉からは、百獣の王たる風格が窺えます。雄の獅子は左右の前足で右上から左下へと二枚の銅銭を通したリボンを押さえ、背骨に沿って立派なたてがみを生やし、臀部にあるしっぽの毛は盛り上がり、さらに五束に分かれています。雌の獅子はうって変わって、左の前足でリボンを押さえ、傍には幼い獅子を一匹連れています

  最後に、殿内の壁面に目をやると多様な彫刻が見られ、観音山石を使用した「櫃台腳」「裙堵」「腰堵」「身堵」「頂堵」「水車堵」(以上、全て壁面の部分名称)で壁面が構成されています。さらに「剔地起突」(浮彫りの技法の一種)や「弄空鏤刻」(空洞を作る彫刻法)といった彫刻技法を用いて、『三国演義』『封神榜』の人物から縁起の良い「吉瑞図」まで、様々なテーマに沿った彫刻を施し、洗練されつつも素朴な面白みが感じられます。