關渡宮の僧侶が抗日運動に参加していたことから、日本軍の報復的な焼き討ちに遭いますが、明治30年(光緒23年、西暦1897年)に情勢が安定すると、地域住民は廟の再建に乗り出します。『北投公學校校長報告』(北投公学校校長報告書)によると、当時役員を務めた林大春と翁源隆が協議し、廟から2,000元の出資と庄民の寄付400元を工事資金に充てています。關渡宮には地租収入があったため、自身で大部分の再建費用を出資し、地域住民は二割ほどの負担で、關渡出身の商人林大春が工事を主導しています。
現存する「重修關渡宮碑記」(關渡宮修復碑)によると、林大春が先立って200元を寄付し、他の信徒からの寄付金と併せて1,276元を出資しましたが、支払いにはなお85元足りず、林大春が不足分を補ったとあります。当時、台湾には既に多くの媽祖廟がありましたが、關渡の媽祖は信徒にとって特別な地位にあったため、その歴史的特殊性に鑑みて「關渡宮」と名付けられ、現在に至っています。
しかしながらこの度の損傷は激しく、2,000元余りの資金でも間に合わない状況で、明治40年(西暦1907年)に総督府の許可を得て、台北・桃園・新竹・宜蘭等の地域からも8,000元余りの寄付金を募り、現在の規模に至る工事が行われています。この時に林大春は既に高齢であったため、魏田英にその後の役目が引き継がれています。
日本統治時代初期には、日本曹洞宗の伝道師であった佐々木珍龍が、關渡宮を分家として申請しています。ところが明治40年(西暦1905年)になると、台湾総督府は「一田二主」の制度を是正し、地主の大租権を取り消して、実際に土地を利用していた小租戸に土地を所有させています。大租戸の損失に関しては公債を発行して補償するも、換金出来ないものであったことから、關渡宮の経営は厳しいものとなります。その後、曹洞宗は關渡宮との関係を放棄し、關渡宮は北投庄政府の管理下に置かれ、庄長が關渡宮の法定管理人となっています。
台風による損壊と修繕は、大正2年(西暦1913年)6月1日付の「台湾日日新聞」(中文版)によると、「關渡宮は暴風雨の損傷のため、信徒の間で寄付を募って修繕を行っているが、近ごろは参拝者が毎日50~60名に上る。」とあります。また、数年後に關渡宮が再び暴風雨の被害に遭うと、大正12年(西暦1923年)と昭和10年(西暦1935年)の「台湾日日新聞」に取り上げられ、「關渡宮重修前殿碑記」(關渡宮前殿修復碑)にも記録が残されています。