『諸羅県志』に以下の記載があります。「天妃廟:…一在關渡門,原建山頂,康熙五十八年,移建山麓。」これによると、康熙58年(西暦1719年)に、象鼻山の山頂にあった天妃廟を中腹あたり、現在の關渡宮付近に移転させたとしています。移設の原因は、康熙33年の台北大地震によって形成された湖の水位が下がったのに伴い、北投の硫黄と貨物を福建へと輸送する船舶の停泊位置も下降したためと、推測されています。
現存する關渡宮の石碑「關渡宮重修前殿碑記」(關渡宮前殿修復碑)と大正5年(西暦1916年)の『北投公學校校長報告』(北投公学校校長報告書)によると、清代には多くの工事が行われ、乾隆39年(1774)、47年(1782)、嘉慶17年(1812)、道光3年(1823)、光緒16年(1890)の5回に渡っています。また、小規模の修繕工事に関しては記録が残されていません。
『北投公學校校長報告』の記載によると、乾隆46年(西暦1781年)6月に、本殿の方角にずれが生じていることから管理人の鄧大鳳と庄民が協議し、廟2,000元の出資と庄民2,400元の寄付をもって翌年に再建工事が行われています。乾隆40年代は台湾経済が最も潤っていた時期であり、この度の再建資金は清代でも最高出資額にあたり、使用された石材も歴代で最も多く、現地住民による寄付以外にも、福建や広東からの寄付があり、今日の關渡宮の基盤を建設しています。現在の關渡宮正殿の四隅には、広東籍もしくは閩籍の客家族の出身と推測される鄧大鳳の建てた金の石柱が残され、拝殿には「北投社弟子潘元坤、劉士損、金佳玉仝喜助」と署名の入った龍柱があり、「北投社弟子」は北投地域の原住民族を指しています。他にも、同安籍の人が寄付した三川門両脇の「龍虎堵」(龍と虎の石彫の壁)が見られることから、今回の再建が閩・広東・平埔族の三大グループによるものであることを物語っています。
嘉慶17年(西暦1812年)の工事は、主にそれ以前の地震による損傷を修復するためのものでしたが、当時は海賊が頻繁に出現し、海路が閉鎖されて商業が衰退し、一般市民は経済的に困窮していたことから、修繕程度のみの工事となっています。十数年後の道光3年(西暦1823年)に台湾全土が台風の被害に遭い、關渡宮も再建の必要性に迫られると、当時の管理人・陳愿淡と廟が2,400元を出資し、庄民の寄付400元と併せて、翌年10月に工事が行われています。この時に建造された石窓と石彫の「裙堵」(土台から窓枠下をつなぐ壁面)は今でも残され、「同邑太學生高國基敬奉」「広東饒邑鴻崗許國良敬立」「弟子臺長生敬奉」等の落款が見られます。高國基・許國良は漢民族、臺長生は平埔族の原住民族であったことから、關渡宮は長年、閩・広東移民ならびに現地原住民族たちの共同信仰の場であったことが窺い知れます。
道光4年(西暦1824年)の修復工事は清代最後の大規模工事で、寄付人と寄付金額の記された石碑が今でも關渡宮功徳堂の両脇の石壁に残され、北投地域の住民、台北盆地の大事業主や企業、ひいては新竹・泉州の商人からの寄付も見られます。
光緒16年(西暦1890年)には小規模の修復工事が行われ、当時の役員林煥光は廟の1,800元の出資額と庄民の寄付金500元を併せて、建物の破損と正殿両脇の社殿を修復しています。光緒10年(西暦1884年)にフランス軍が淡水に侵攻すると経済的に影響を受け、修復工事の規模は道光4年のものよりも小さくなります。四年後の光緒20年(西暦1894年)に甲午戦争の清朝敗戦によって台湾は日本に割譲され、翌年に日本の近衛師団が三㹦角から上陸し、武力をもって台湾を接収しようと試みた結果、台北義勇軍の抵抗に遭っています。關渡宮は以前から政府と良好な関係を保っていたことから、抗日運動に参加する僧侶もいました。旧暦の1月23日に關渡宮は日本兵の報復として、廟内に灯油を撒かれて火事に遭い、100年の古跡の大半が焼け落ちています。事件の夜には、八里蛇仔形から駆け付けた高姓を名乗る村民が媽祖像と観音像を救出し、事件が平復するまで観音山麓の石壁脚に隠したと言われています。